等身大のわたしブログ

頑張り屋のわたしのための日記

トンネルの先の星

自己尊厳が低下気味の日々を送っています。
「そうです私がトラブルの本体なんです。」
そう貼り付けておきたい自意識があります。
先日私は「わきまえない女」だったかもしれません。
でもそこでスポットライトを浴びたのは私ではなかったでしょう。
その現場でタイムリーなラジオが流れただけで、私が「わきまえていない」ことは普段からよくあることです。
なんかちょっと不運に巻き込まれてしまったのかもしれないし、不運だったのはそれくらいです。
シチュエーションコメディだったかもしれません。
オフィスはいたって真面目ですので、ユーモアの味付けをするにはもってこいですよね。
私側の問題としては、実力が必ずしも伴わないことです。
ずっこけたくなる私の実力の伴わなさもいいキャラクターですが、残念ながら題材にはもってこいですが、現実のオフィスにはユーモアが欠落しています。
一方で、私自身が別の立場の人にプレッシャーを与えていることがあるのだ、という現実にも直面してショックを受けました。
世の中には色んな立場の人がいます。
一筋縄にはうまくいかないけれど、「うまくいく方向に向かいたい」のです。

 

そういった現実から自分を解放する一つの手段として、新しいことを学ぶ日々です。
でも私の身体感覚では、実践するチャンスがないことをただ読んだりすることがとても苦手であまり覚えられません。
基礎が無駄だ、とか言いたいのではないです、もちろんそう思わないです。
座学で終わらないことを学びたいと思うのです。
私にとっての不幸は、自分の持っている能力を出し切れないこと、活かす場がないこと、エネルギーや能力があることを無視されたりないことにされることです。
力のない存在だと誤解されて甘く見られることです。
自分が知っていることや経験に耳を傾けてもらえないことです。
私には不動の地位はありませんし、それよりもそのときの自分の心が訴える方に自由に進みたい性分です。
そしてまだまだ新しいことを覚えられます。
経験を、思い出を大切に、でも古いことに囚われず、しみったれず、これからやってくるものに対応していける頭の良さを持っていたいし、私にはあると思うのです。

また、今週は不思議と子供の頃の私が今ここにいるような感覚がします。
秩序のある場所ではみ出ていく自分。
一見大人しくてもトラブルメイカーのようなわがままな部分。
取り繕えない、その場所にフィットしきれない、差を感じるとき、それが私です。
子供の頃からずっと傷ついている私が、今週はそばにいました。

私には何故舞台や歌が必要だったのか、「必要」だった理由がその日々の中で蘇ってきます。
そのためにこんな日々をプレゼントしてくれたのかしら?
私は天井を見上げてつぶやきました。
「ありがとう」

自分の言葉を失うとき、日常の会話で表現できない領域のものを身体の中に含んでいることを知ります。
経済面に不足を感じると、大事だったものが大事ではないように思えてきました。
お金があってこそできることに目が向きました。
それもまた私に必要なことで、今取り組んでいることです。
その中で「自分のために」歌ってもいいのだと思えたとき、心の中に花が開いたようでした。
私が自分を解放するための言語なのだ。
私自身がそれで自由を経験することができる、その瞬間に私にとっての自由がある。


例えば働くことと、自己表現は対になるもの。
月と太陽のように別の性質を持ち、必要不可欠で、二つあることで成り立つ。
またはパラレルワールドでしょうか。
それぞれの世界での経験が内的に影響し合うと行動に反映されますが、基本的には世界が交わることがない。
私は異質なものを両方含んでおける。
それも私にわかってきた、実感できてきた身体感覚です。

 

何故勉強していたのかも早くも忘れそうになりました。
目の前の課題をこなしつつ、自分の人生の目的は何かを、ランドスケープのように頭上に描いて、冒険をしていないと。

トンネルを歩いているような気持ちになることがあります。
もうずいぶんと長いこと。
でも本当にそうでしょうか?
トンネルのような日々だと感じて心が暗いとき、私は四季折々の景色を日頃から見ていることを忘れてはいけない。
いけないことはないけど、美しい景色もそこにあり、いつだって見えるのだよ、と知っている方が幸せです。

 

AとBの選択肢があって、本当は私はCの存在があることを知っていて、でもそのときはCを選べなかった。
AにしてもBにしてもCを選ぶための道でしかなくて、どちらもトンネルの先はCに続いていて、少し怖いけれど私はそこへ進んでいる。
Cにたどり着いたら、私にはまた分かれ道が待っているかもしれない。
そうしたらまた更に輝く二択の上の星があるかもしれない。